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時代と共に業態を一気に変えることができるフレキシブルな家系

山本化学工業の前身は、能登の港から関西・北海道を巡る北前船の回船問屋でした。

「北前船」とは、日本海回りで商品を売り買いしながら結んでいた商船で、現在の運搬船のように商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を売買していました。


戦時統制を機に1919年、十代目社長・山本栄吉により化学研究所へと転業し、まだプラスチック製品のない時代に、脱脂粉乳を縮合した樹脂から合成ボタンを製造する技術を開発しました。

「脱脂粉乳」とは、牛乳中の脂肪分を除き、乾燥させて粉末状にしたもので、「スキムミルク」として現在はスーパー等で販売されています。 この大正時代では今では当たり前のボタンが高級品で庶民の憧れでした。しかし、脱脂粉乳から作ったボタンはそんな高級品のボタンの1/10の価格で販売ができたので、大ヒット商品になりました。


1925年(大正14年)正月、山本化学研究所前にて山本家と社員やその家族との記念撮影。
当時、日本では正月に会社に集まり、新年の挨拶をするという習慣があったようです。

前列着座 左より:栄吉(研究所として初代)、徳三郎(二代目)
前列着座 右の赤ちゃん:敬一(後に山本化学工業株式会社として創業)


1946年、山本敬一が新素材の合成ゴムで消しゴムを開発。 当時としては珍しい、柔軟性を持つ消しゴムで、パロマというブランド名(ワシのロゴ)で販売をしました。 この商品がヤマモトの合成ゴムの元祖となります。


1948年、消しゴム付き鉛筆を開発し、特許を取得しました。その後、商品は世界のスタンダードにまでなりました。


1955年、西ドイツから独立気泡構造の合成ゴムが生産できる特殊プレス機を多額の投資をして購入。

発泡ゴムで最初に作られた製品がビーチサンダルでした。それまでのゴム板のサンダルが水に沈むのに対して、気泡が入っている発泡ゴムは浮くため、海辺で脱げても無くさずに発見しやすいと評判になりました。
進駐軍が本国に持ち帰り、世界にビーチサンダルが広まったとされています。


1959年、十二代目・山本敬一社長就任。

1943年に山本化学研究所に入社した山本敬一は、携帯もメールも無い当時から積極的に海外で営業をしていました。

のちにテレビのインタビューで当時のことを振り返り「たえず時代の一番前に進んどらなあきまへんな」と語っている。

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